源平の時代から南北朝まで、肥後国(熊本県)を代表する一大勢力を築いた武士団がいます。後に菊池武光らを輩出する菊池氏一族です。
菊池氏は源平合戦でも反平家を掲げて挙兵。やがて源氏に従いますが、思わぬ形で不遇の時代を迎えます。
南北朝時代になると、当主菊池武光は懐良親王を推戴。九州を征西府のもとにまとめ上げるほどの働きを見せました。
しかし征西府が陥落後、菊池氏は弱体化して没落。戦国時代には家督を奪われて実質的に滅亡への道を辿ります。
菊池一族は何のために戦い、どう生きたのでしょうか。
肥後国の菊池一族について見ていきましょう。
源平合戦での挙兵と没落
肥後国菊池氏の由来は、平安時代にまで遡るとされます。
寛仁3(1019)年、壱岐や対馬周辺に女真族の一派と見られる海賊が襲来。太宰権帥・藤原隆家はこれを撃退します。
このとき、隆家のもとで手柄を立てたのが藤原政則という人物でした。
政則は大宰少弐に叙任。その子・則隆の頃に肥後国菊池郡に入部して土着し、菊池氏の祖となりました。
菊池氏の由来については諸説ありますが、最も有力なのが上記の話のようです。
その後、平安時代後期となると菊池氏は鳥羽院に出仕。院政を支える武者として、荘園を寄進するなどしています。
しかし平治の乱後に平清盛が台頭。清盛は肥後国の支配を強め、日宋貿易に乗り出していきました。
治承4(1180)年、平家に不満を持つ以仁王(後白河法皇の第三皇子)が挙兵。源頼朝らも兵を挙げ、源平合戦の火蓋が切って落とされました。
翌養和元(1181)年、菊池隆直は肥後国で反平家の兵を糾合。阿蘇氏らと共に太宰府を焼き討ちすることに成功しています。
平家による討伐を受けると菊池氏は降伏して従属。寿永4(1185)年に平家が壇ノ浦で滅亡して源氏に従いました。
しかし隆直は戦後に疑われて処刑され、菊池氏自体も疑いの眼差しで見られるなど不遇の時代を迎えます。
菊池武光、九州を代表する武士団の頭目となる
鎌倉時代になると、菊池氏は浮上の機会を狙って行動に出ていきます。
承久3(1221)年、後鳥羽上皇は鎌倉幕府討伐のために軍勢を招集。このとき、菊池能隆は上皇方に味方します。
しかし上皇方は鎌倉方の北条義時らに敗北。菊池氏は所領を大幅に減らされてしまいました。
それでも菊池氏は、日本国のために武士としての本分を貫きます。
文永11(1274)年と弘安4(1281)年に、元軍が北九州に襲来。世にいう元寇(蒙古襲来)でも、菊池武房は一族郎党共に奮戦して戦っています。
しかし戦後に恩賞が出なかったため、菊池氏は次第に幕府に対して反感を抱くようになっていきます。
元弘3(1333)年、後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐を画策。菊池武時は綸旨(天皇の命令文書)に従って、鎮西探題を襲撃します。ところが武時は裏切りによって討死を遂げてしまいました。
やがて中央で後醍醐天皇による建武政権が樹立。武時の嫡男・菊池武重は肥後守が叙任されています。
菊池氏は朝廷(特に南朝)との関わりを強め、次第に中央の争いにも介入していきました。
程なくして建武政権から足利尊氏が離反。朝廷は南北に分裂して全国に争いが波及していきます。
菊池武光は阿蘇氏と共に、肥後国に懐良親王(後醍醐天皇の八宮。征西将軍)を迎えて擁立。肥後国から九州各地の北朝方と壮絶な戦いを繰り広げます。
菊池武光ら征西府は九州の第一勢力となりますが、時代はすでに南朝の時代ではありませんでした。
応安5(1372)年、室町幕府は今川了俊を九州探題として派遣。明徳3(1392)年の南北朝合一により、菊池一族は帰順しました。
菊池氏の末裔が歴史を変えた?教科書に載る偉人たち
室町時代になって、菊池一族は内憂外患に悩まされるていきます。
菊池武朝(武光の孫)は肥後国守護代、菊池兼朝(武朝の孫)は肥後国守護職をそれぞれ拝命。公的に肥後国の支配を認められています。
しかし菊池持朝の代には家督争いが表面化。当主を相次いで失ったことで、家督は阿蘇氏に奪われてしまい滅亡してしまいました。
菊池氏の本家は途絶えたものの、庶流は江戸時代に再び現れます。
肥後国の米良氏は、菊池氏庶流の末裔と名乗って5000石の旗本となり、交代寄合として存続しました。
明治時代には、米良氏は菊池姓を名乗って男爵に叙爵。後に貴族院議員で陸軍中将であった菊池武夫を輩出して存在感を示しました。
他に菊池氏で庶流で代表的なのが、西郷氏です。
西郷氏は薩摩島津氏に仕え、ここから薩摩藩士・西郷隆盛を輩出。維新の三傑と言われるほどの活躍を見せました。
肥後菊池氏の出身の人物が実際に歴史を変えるほどの活躍をしたことになります。