戦国時代末期、国政にも影響力を持つ人物が肥後国(熊本県)南部を統治します。秀吉の家臣である小西行長です。
行長は商人から武士に転身し、豊臣政権を支えた人物の一人でした。
肥後国主であった佐々成政が失脚後、行長は肥後国南部に入封。北部の加藤清正と共に肥後国統治にあたります。
しかし行長と清正は路線の違いから対立を深刻化。朝鮮出兵でも衝突し、関ヶ原では敵味方に分かれてしまいました。
行長はどのような人物で、どのように肥後国を統治したのでしょうか。
行長と肥後国との関わりについて見ていきましょう。
豊臣秀吉への出仕~宇都城主となるまで~
永禄元(1558)年、小西行長は山城国の京の都で、商人・小西隆佐の次男として生を受けました。
父・隆佐は和泉国堺の商人で、主に京の都で活動していた人物です。商人でありながらキリスト教に帰依しており、行長にも強い影響を与えたと考えられます。
やがて行長は、備前国(岡山県)の商人・魚屋九郎右衛門に養子となりました。
当時の備前国は、戦国大名・宇喜多直家の支配下にあり、程なくして行長は宇喜多家に武士として仕官しています。
このとき、行長の運命を決定づける出会いが訪れました。
天正8(1580)年、織田家臣の羽柴(豊臣)秀吉が摂津国三木城の攻略を開始。行長は宇喜多家の使者として秀吉と面会しています。
才能を認められた行長は秀吉に出仕。以降、秀吉のもとで立身出世を果たしていくこととなります。
天正10(1582)年には本能寺の変が勃発。秀吉が山﨑の戦いで明智光秀を破ったことで天下人としての地位を固めました。
天正13(1585)年、行長は摂津守に叙任。豊臣姓を名乗ることを許されるなど、重用されています。
行長は行政官僚としても有能でしたが、軍事においても優れた業績を残していました。
天正15(1587)年には九州平定に従軍。翌天正16(1588)年に肥後国(熊本県)の国人一揆鎮圧に出動しています。
秀吉は九州の要地である肥後国に行長と加藤清正を配置。それぞれ半国ずつ統治を開始します。
肥後国北部の大名・加藤清正との対立
行長の肥後国統治は、多くの波乱に満ちたものでした。
天正17(1589)年、肥後国の南半分3郡を領有する行長は宇土城に居城を設置。石垣の城を築いて防備を固めます。
しかし城普請に際して、天草地方の国人領主が拒否。やがてこれが天草国人一揆へと発展します。
当時の天草地方は、キリシタンが大部分を占めている地域でした。自身もキリシタンである行長は天草国人一揆を話し合いで解決しようと模索します。
しかし肥後国北部の加藤清正が強硬な態度で出兵を開始。やむなく行長は武力での鎮圧を選ぶこととなります。
行長と加藤清正の肥後国配置は、秀吉による朝鮮出兵を見据えての措置でした。しかし両者は国境線やキリシタンへの態度から、次第に対立を深めていきます。
文禄元(1592)年、行長と加藤清正らは文禄の役で朝鮮半島に出兵。碧蹄館の戦いで明・朝鮮の連合軍を撃破しました。
通常であれば戦勝に湧くはずですが、日本軍の置かれた状況は過酷だったようです。
日本軍は兵糧不足と疫病に悩まされており、戦いを継続することは得策ではありませんでした。
行長は石田三成らと共に講和条約の交渉を開始。しかし講和に関して、加藤清正らと意見が衝突していきます。
慶長3(1598)年、豊臣秀吉が病没。朝鮮出兵は思わぬ形で取りやめとなり、行長は日本に帰国しました。
このとき加藤清正も帰国。行長は互いの立場の違いから、より熾烈な形で衝突を深めて行きます。
関ヶ原の戦いで西軍として戦うが…
秀吉の死後、勢力を拡大していったのは徳川家康でした。
当時、家康は豊臣政権の大老として国政を主導。事実上の天下人として政治の表舞台に君臨していました。
行長は当初家康の取次役を務めて関係を強化。しかし行長と近い石田三成らは打倒家康を掲げて動き始めます。
慶長5(1600)年、家康は会津征伐に出発。行長は大坂に残留し、挙兵した石田三成と行動を共にしていきます。
同年9月、行長は美濃国(岐阜県)の関ヶ原に布陣。石田三成らと共に家康の東軍を迎え撃ちました。
当初は優勢だった西軍ですが、小早川秀秋が裏切ったために形勢が逆転。行長の部隊は総崩れとなってしまいます。
伊吹山中に逃亡した行長はやがて出頭。石田三成らと共に京都市中引き回しの上、斬首の刑に処せられました。
一方、行長の治めていた肥後国南部は加藤清正によって占領。肥後一国は加藤家のもとで統治されていくこととなります。