熊本県はかつて肥後国と呼ばれ、その前は「火の国」の異名で呼ばれる地域でした。
古代の熊本県地域は火山災害が頻発。しかし肥沃な土地と特性を生かして人々が集う場所となっていきます。
火の君一族を中心とする火の国は、九州において筑紫国に次ぐ存在となって強大化。やがて肥の国の名で呼ばれるようになり、豊な国として認識されていきました。
火の国はどのような経緯で成立していったのでしょうか。
熊本県と火の国の関係について見ていきましょう。
大規模な生活圏が存在した火山大国
熊本県地域は、古代から火山大国として認識されていたようです。
同地では旧石器時代(約1万6500年前)の遺跡100ヶ所(全体の三分の一に当たる)が確認されており、人々の生活拠点が県内全域に多数確認されています。
最も古い石器は3万年以上前のものと推定。つまり有史以前のかなり古い時代から、熊本県地域には文明が存在していたと言えます。
「火の国」と称せられるほどですから、火山災害とは深い関係がありました。
火山地帯と聞くと、人々の生活拠点とは真逆なのではないかと考えますよね。しかし実情は違いました。
熊本県地域は何度も火山噴火に襲われましたが、阿蘇山などの溶岩は良質な石材として生活に使われていきます。むしろ天然資源を産出する場所と考えられていました。実際に安山岩の破片は小刀や石斧に加工されています。肥沃な土地ににも恵まれたことで、狩猟採集を中心とする社会が営まれていました。
縄文時代に入ると、鬼界カルデラが大噴火。九州全域が壊滅的な打撃を受けたと言われています。
しかし熊本県地域ではその後も貝塚が確認されるなど、東日本と同様な土器文化が見られて発展を続けていきました。
熊本県地域の縄文遺跡群は実におよそ770ヶ所確認されています。土偶や石刀などの遺物が出土していて、高い文化水準があったことがわかりますね。
遺跡からは米と大麦が発見され、すでに最終中心から畑作への転換が進んでいました。
ヤマト王権への接近と火の国
弥生時代に入ると、熊本県地域は大きくな変転を遂げていきます。
環濠集落は台地上に形成。同時代の遺跡は熊本平野の全域にまで及ぶようになり、集落と稲作の広がりが確認されています。
文蔵貝塚では巻貝の殻が多数発見。製塩法の一つ「藻塩焼き」が行われていたと考えられています。すでに古代にあった塩作りが熊本県地域では行われていました。
弥生時代には、近畿地方にヤマト王権が成立していました。
熊本県地域では、王権のもとで球磨・閼宗(あそ。現在の阿蘇)・八代の三つの県(あがた)が成立します。
特に八代県の宇土半島基部では、120ほどの前方後円墳が発見。この地域には「火君(ひのきみ)」という豪族の発祥地とされました。
熊本県の別名「火の国」は、この火の君一族に因むと考えられています。
※別説『日本書紀』によると、景行天皇は不知火(しらぬひ)に導かれて八代県の豊村に上陸。その国を「火の国」と名付けたと言います。
火の国から肥の国、そして肥後国へ
火の君一族の勢力拡大によって、熊本県地域も周囲の注目を集めていきます。
火の君一族は本拠地を氷川流域に定め、5~6世紀には現在の熊本県地域の政治の中心的存在となっていました。
このとき、九州には福岡県地域に「筑紫の国」が存在。それに次ぐ存在が火の君一族の存在でした。
火の君一族は筑紫の君とは婚姻関係(または従属関係)にあったと考えられています。
しかし527年、思わぬ事件が起きて力関係が一変しました。
大和朝廷と筑紫野国造磐井氏が激突。世にいう磐井の乱の勃発により、九州には大規模な戦いが巻き起こります。
火の君一族は朝廷側として参戦。勝利を収めて勢力範囲を、肥後国だけでなく肥前国(長崎県と佐賀県)地域まで伸ばしました。おそらくは、九州北部の西側の広い地域を有していたと考えられます。
同地域はやがて「肥の国」と呼ばれるようになりました。
肥の国は農耕にも適しており、山や海の幸にも恵まれた土地です。肥沃の肥を選んだ理由は、豊穣を祈る思想が関わっていたと推察されます。加えて火の国の「火」を忌避していたようです。
では現在の熊本県にあたる肥後国は、いつ頃に誕生したのでしょうか?
持統天皇10(696)年には、すでに肥後国という記述が確認されています。
このことから、先代の天武天皇から持統天皇の時代には、肥の国は肥後と肥前に分けられていたようです。