戦国時代末期、肥後国(熊本県)に秀吉と繋がりの深い人物が入国します。賤ヶ岳の七本槍に数えられたほどの武将・加藤清正です。清正は秀吉のもとで多くの武功を挙げるなどして活躍。武功だけでなく行政官僚としても優れた実績と手腕を持つ人物でした。
佐々成政の失脚後、清正は肥後国北部に入封。小西行長と共に肥後国統治にあたります。肥後国統治と朝鮮出兵では、清正は行長と対立。やがて関ヶ原においても敵味方に分かれて争い、肥後国は東軍と西軍の二つに分かれることとなりました。
清正は肥後国に対してどのような態度で臨んだのでしょうか。
加藤清正と肥後国との関わりについて見ていきましょう。
出生から肥後国北部の大名となるまで
永禄5(1562)年、加藤清正は尾張国愛知郡で、刀鍛冶・加藤清忠の子として生を受けました。幼名は虎之助と名乗ります。父・清忠は美濃国斎藤家に仕える武士でしたが、負傷したことで尾張に移住。刀鍛冶として生計を立てていました。
清正が3歳のとき、父・清忠が38歳の若さで病没。清正は母・伊都と尾張国の津島に移住します。武士でもなく、幼くして父を失ったことで、大変な苦労があったことが推察されますね。しかし清正には、大きな後ろ盾がありました。
母・伊都は羽柴(豊臣)秀吉の母・なかと従姉妹の関係であり、自身は秀吉の再従兄弟という存在だったのです。秀吉が立身出世を遂げるとともに、清正にも栄達の道が開かれていきます。
天正元(1573)年、清正は長浜城主となった秀吉のもとに出仕。小姓(秘書役)として働き始めます。清正は身内であることから重用され、次第に頭角を表していきました。
天正11(1583)年、賤ヶ岳の戦いで敵将・山路正国の首級を獲得。この後「賤ヶ岳の七本槍」の一人として、豊臣政権を代表する武功派として認識されていきます。
天正13(1585)年、秀吉が関白に就任。清正は従五位下に叙任され、主計頭の官位を授かりました。清正は秀吉の信任が厚く、所領も要地を与えられます。
天正16(1588)年、肥後国(熊本県)で国人一揆が勃発。国主であった佐々成政は改易されて切腹に処されます。代わって清正が肥後国に入国。肥後国の北部(南部は小錦行長が統治)を領有する大名となりました。
肥後国統治と朝鮮出兵で小西行長と対立する
清正は肥後国北部を統治するにあたり、様々な問題と直面することとなります。秀吉はすでに唐入りと朝鮮出兵を考えていました。いわば九州は出兵の前線基地として考えられています。
清正と小西行長の肥後国入封は、兵站確保と兵士輸送などの役目を意識されたものでした。しかし清正は、肥後国南部を統治する小西行長と対立を深めていくこととなります。
天正17(1589)年、肥後国南部の天草諸島で国人一揆が勃発。国人領主が連合して小西行長に反旗を翻します。
天草諸島の住人は大部分はキリシタンであり、同じくキリシタンである小西行長は話し合いでの解決を模索していました。ところが清正は肥後国での兵乱を重要視して介入。援軍を率いて武力鎮圧へと踏み切ります。
もとより清正と小西行長は国境線を接しており、険悪な関係にありました。この事件を境にして対立は激化して行きます。
文禄元(1592)年には朝鮮出兵に従軍。小西行長が一番隊主将、清正は二番隊主将という陣容でした。清正は快進撃を続けますが、小西行長は苦戦。次第に両者の方針や作戦に食い違いが生まれていきます。
小西行長は秀吉の命を無視して和睦を画策。しかし清正は反対したため、讒訴されて京での謹慎を申し渡されました。清正はすぐに許されて復帰しますが、このときから小西行長と、それに近い石田三成らと対立を深刻化させていきます。
関ヶ原で東軍に属し、肥後一国を切り取る
清正は新しい時代の到来を肥後国と共に歩んでいくこととなります。慶長3(1598)年、秀吉が病没。朝鮮出兵は終わりを告げ、清正は日本へと帰国しています。
しかし国政の主導権をめぐり、豊臣政権内部で争いが激化していきました。徳川家康が国政の主導権を掌握すると石田三成らが反発。両者の間に戦端が開かれることとなります。
清正は肥後国に在国しており、家康方に接近。対して小西行長は中央で石田三成方に助勢します。
慶長5(1600)年、清正は黒田如水らに協力。九州の石田方の諸城を次々と陥落させて行きます。その中にはかつて対立した小西行長の居城・宇土城も含まれていました。
やがて清正と黒田如水の軍勢は、九州をほぼ制圧。その頃、美濃国(岐阜県)の関ヶ原でも家康が勝利した知らせがもたらされます。
戦後、小西行長は石田三成らと共に京都市中引き回しの上で斬首に処せられました。
一方の清正は、論功行賞で小西行長の旧領・肥後国南部を獲得。晴れて肥後国一国52万石の大名となりました。
清正は居城の熊本城を拠点に領国を整備。慶長10(1605)年には従五位上・侍従兼肥後守に叙せられるなど、朝廷からも認められます。
その後も、清正は豊臣家と徳川家と関係を構築。両者の調停役としても活動し、慶長16(1611)年に病を得て亡くなりました。
参考文献・参考サイト
・「加藤清正」コトバンク
・「城造りの名人として名を馳せた、加藤清正」Discover Japan
・安藤英男『加藤清正のすべて』新人物往来社