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文化/歴史 熊本地震

明治時代に熊本で活躍した青い目のサムライ「ジェーンズ」とは

2017年3月16日

2016年4月、2度に渡る大きな地震で熊本県の重要文化財「ジェーンズ邸」が全壊した。熊本城の被害がテレビなどで大々的に取り上げられる一方、ジェーンズ邸が取り上げられることはほとんどなかったため、その被害はほとんど知られていない。そもそも、熊本県民の方でもジェーンズ邸を初めて聞いた人も多いでのはないだろうか。

ジェーンズ邸は、明治時代に熊本洋学校の教師としてアメリカからやって来たL.L.ジェーンズ(リロイ・ランシング・ジェーンズ)の邸宅として使用されたものであるが、このジェーンズなる人物は熊本の文明開化に多大なる貢献をした人物の一人である。そこで今回は、 ジェーンズ邸の一日も早い再建を願って、L.L.ジェーンズの生い立ちから熊本での活躍までをご紹介したいと思う。

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ナポレオンに憧れ、南北戦争に身を投じた青年時代

1837年、オハイオ州の開拓地で生まれる

1837年、オハイオ州のニュー・フィラデルフィアという小さな町でジェーンズは生まれた。父親イライシャ・ジェーンズは約70ヘクタールの農場の経営者、母親エリザベス・クライダーは地元の有力者の娘という比較的恵まれた環境を持ったジェーンズ。泳ぎや釣り、馬乗り、ハンティングなどが大好きで、機械はなんでも分解してしまう冒険心・探究心のある少年であった。

父親のイライシャ・ジェーンズは敬虔なプロテスタント信者であり、1840年代半ば頃には奴隷制廃止運動に参加する。ジェーンズは、そんな父親の背中を見ながら大義のために生きることの大切さを学んでいく。学校がなかったニュー・フィラデルフィアにも、1850年にようやく学校が建てられ、ジェーンズはそこで学ぶこととなる。学校でジェーンズが没頭したものが読書、特に歴史の勉強にはひときわ関心が高かった。ナポレオン・ボナパルトとジョージ・ワシントン(米国初代大統領)が大のお気に入りで、いつかは自分もこの2人のようになりたいという大きな野心を抱いていた。

1853年に学校を卒業すると、父親の勧めで法律家見習いとして法律事務所で働き始める。しかし、当のジェーンズは法律には関心がなく、ナポレオンやワシントンへの強い憧れから、1856年に軍人になることを決意。反対する父親を説得し、ニューヨーク州ウェストポイントにある陸軍士官学校に進学することとなった。

過酷な戦争体験とキリスト教への目覚め

ジェーンズが進学したウェストポイント陸軍士官学校は、軍事教育全般だけでなく工学や科学、数学など学問を学ぶ場として高度な教育計画が立てられたエリート養成学校であり、ここでジェーンズは幅広い知識を身につけることとなる。厳しい規則や学科試験、軍事訓練など学校生活はとても大変なものであったが、脱落することなく迎えた1860年秋、エイブラハム・リンカーンの大統領当選により学校生活は一変する。

南北の緊張が一気に高まり南部諸州が連邦から次々に脱退。1861年4月12日に南北戦争の火ぶたが切って落とされたのである。南部出身の同級生たちは南部連合軍に参加するために続々と学校を去っていく。手紙で同級生たちが昇進していく様子がジェーンズ達のもとに伝えられると、居ても立ってもいられなくなったジェーンズは、卒業を早めて北軍の任務に就きたいと国防長官に直訴する。この訴えは認められ、1861年5月7日、ジェーンズは士官学校の卒業生としてウェストポイントを出発し、ワシントンへ向かった。ジェーンズが24歳の時である。

ワシントン到着後、砲兵隊に派遣されたジェーンズは民兵の訓練と大砲の整備で忙しい毎日を送るが、その努力が報われ6月には早々に少尉から中尉へ昇進する。ワシントンでの後方任務に就いていたジェーンズであったが、ブルランの戦いで北軍がワシントンへの退却を余儀なくされると、ジェーンズの砲兵中隊は退却援護のために前線に投入された。猛暑の中、昼夜を問わず働き続けたジェーンズは疲労と重度の日射病で意識不明の重体となってしまう。さらに、腸チブスも併発し生死の境をさまようジェーンズに幼少時代に父親から説かれたキリスト教の教えが去来する。生命と希望が薄れて行く中でキリスト教に救いの手を求めたジェーンズは、キリスト者としての自覚を強めて行くのであった。

死の淵から生還すると無理を押して砲兵隊に復帰し、1862年初めにピックンス砦防衛に参加する。しかし、過酷な環境のなかで健康が再び悪化してしまう。同年12月にジェーンズはネリーと結婚するが、健康は改善されず1863年の春には再び重い病気にかかってしまう。肉体的・精神的に限界を迎えたジェーンズは軍医から任務遂行不可能と診断され、1863年8月に教官および助教授の任を受けウェストポイントに戻ることになってしまった。ウェストポイントに戻った後、ネリーとの間に娘が生まれ、疲弊した心と体にとってひと時の安らぎの時期となったが、それも長くは続かなかった。1864年12月にネリーが病気で他界したのである。

最愛の妻ネリーの死で精神的に不安定な状態が続く中、1865年の夏にジェーンズは第二砲兵隊大尉に昇進し、オレゴン州のスティーヴンス砦の守備隊長に命じられる。しかし、隊長としての任務は、健康に不安を抱えるジェーンズには荷が重いものであった。仕事に追われる中でジェーンズの健康は再び悪化し、肉体的・精神的に追い詰められたジェーンズは情緒不安定な言動が目立つようになる。部下との衝突も絶えず、1867年の春にはサンフランシスコで開かれる退役委員会に出頭を命じられてしまう。幸いにもここでは任務不適格という決定は下されなかったが、自分の健康状態ではこれ以上任務を遂行することはできないと感じたジェーンズは、1867年11月に自ら辞職願を提出し名誉ある大尉という地位を諦めることになってしまった。

ジェーンズは退役委員会後しばらくの間サンフランシスコに滞在していたが、ここで出会ったのがスカッダー牧師の長女ハリエットであった。親交を深めた2人は1868年1月に結婚。ジェーンズは、1869年春にハリエットと生まれたばかりの子供を連れてメリーランド州のセイント・デニスに移り住み農場経営を始めることになった。

ジェーンズの農場は貧弱な土壌との戦いであった。この土地で利益を出すために、ジェーンズは周囲の人と積極的に協力しながら農業改良への科学的な取り組みに没頭した。この経験が、日本での仕事に大いに役に立つことになる。また、メリーランドという保守的で古い思想に固執する土地柄を忌み嫌ったジェーンズは、真のキリスト者の責務は改革者であることだという強い使命感を抱き、変革を妨げている環境を変えようと努力した。結果的に環境を変えることは出来なかったのだが、この経験もまた古い封建制度からの脱却という課題に直面していた熊本で活きることになるのである。

熊本に降り立った青い目のサムライ

明治維新に乗り遅れた熊本の変革

さて、メリーランドでの2年間の生活の後、ジェーンズは熊本県の要請を受けて熊本の地に降り立つことになるのであるが、ここでなぜ熊本県がジェーンズを必要としたのか、その時代背景を見てみよう。1870年の日本は、1867年の大政奉還を機に始まった明治維新により激動の時代を迎えていた。熊本県(肥後藩)は全国5番目の大藩としてその地位を築いていたのだが、強い保守主義により明治維新の流れに取り残されていた。一方で、南隣の薩摩、北隣の肥前、そして遠くない長州と土佐が明治維新により日本の変革の主導権を握ったことが明白になっていた。熊本県の指導者たちにとって、熊本が近代国家創造の競争で立ち遅れつつあることが、あまりにはっきりしてきたのである。

強い危機感を抱いた指導者たちは1869年末から1870年初頭にかけて大規模な変革「肥後の維新」に着手する。ここで中心的な役割を果たしたのが実学党の徳富一敬と竹崎茶堂であった。彼らは行政機構の全面改造や役人の大量解任、役所の閉鎖、財政節減、雑税の廃止などの改革案を提起、案の中には熊本城の天守閣の取り壊しまで含まれるなどかなり急進的なものであった。

また、改革派は教育重視、特に外国の広い知識が必要だと考えており、教育制度の全面改造も提起した。当時熊本には時習館という全国に名を知られた藩校があったが、時代遅れとして廃校が決定され、新しく二つの学校を設立することが計画された。一つは西洋医学を身に付ける医学校、もう一つは洋楽をより総合的に学ぶ洋学校だった。改革派は、両校とも西洋人教師の監督下におかれるべきで、洋学校の教師はアメリカ人が良いと考えていた。そこで改革派のメンバーが長崎に向かい教師探しを始める。しかし、教師探しは難航した。なぜなら、彼らが求めていた人物は理想家で高潔な人格者であり、「サムライ」の精神を持った者だったからである。

長崎で教師を見つけることが出来なかった彼らは、東京の開成学校で教壇に立っていたフルベッキに相談した。フルベッキは大隈重信など重要な維新指導者たちを教えていた優れた教師で、維新指導者と海外世界を仲介する中心的な役割を果たしていた。肥後藩の依頼を受けたフルベッキは、ニューヨークのオランダ改革派教会の総主事フェリスに教師探しを依頼する。しかし、ここでも教師探しは難航したのである。なぜならその当時の日本は激動の中にあり、まして居留地を出て熊本に入るということは命の保証がないことだったからである。

ジェーンズのもとにも日本で教えないかという申し出が1871年の早春に届いた。ジェーンズも他の人と同様、最初はその申し出を断った。しかし、色々な方面から熊本行きを打診されるにつれ、ジェーンズの心は揺さぶられてくる。メリーランドでの生活で肉体的にも精神的にも力強さを取り戻していたジェーンズにとって、メリーランドで燻っていた改革者としての情熱を、日本でなら思う存分に発散できるのではないかと感じたからである。そして、ついに熊本行きを決心したジェーンズは1871年8月、家族を連れてアメリカを出発した。ジェーンズが34歳の時である。

日本の近代化を担う人材を輩出した熊本洋学校

日本に着いたジェーンズは東京で熊本県との契約を済ませると、すぐさま海路で熊本に向かった。神戸・長崎を経由して9月末に熊本に上陸。まるで大名行列かのような豪華な行列で出迎えられ、城下町入りする。祝宴が一通り終わると、早速ジェーンズは行動を開始する。まだ校舎が出来ていなかったが、細川家の姫君の屋敷を仮校舎として45人の新入生とともに熊本洋学校がスタートした。1872年初頭には新しい校舎も完成し、ジェーンズが立案した教育カリキュラムのもとに本格的な授業が開始された。

授業は通訳なしで全て英語で行われ、午前8時~12時まで、お昼休み1時間を挟んで、午後は1時~4時まで行われた。生徒たちは少人数のクラスに分けられ、ひとクラスごとに1時間教えるスタイルが採られた。1年目、生徒たちに英語を徹底的に教え込まれた。毎日テストが課せられ、成績が悪い者は容赦なく退校させられた。席順は成績が良い方から前に順番に座らせられ、一番後ろの席の者は次のテストが悪ければ退学になりかねなかった。そのような厳しい教育方針のおかげで、生徒たちの英語力は劇的に向上していった。2年目は地理、歴史、数学の基礎、3年目は代数、幾何、三角法、測量、歴史、4年目は物理、天文学、地質学、化学、生理学、英文学が教え込まれ、生徒たちの視野を広げて行った。

なお、このような英才教育が、全くと言ってよいほど宗教色を入れずに行われたことは、当時の外国人宣教師たちと比較して特筆すべき点であったと言える。ジェーンズにとって何よりも重要なのは教育であり、改宗ではなかったのである。熊本県がもともと考えていた学校の目標は、高い知性を持った政治家・役人を作り出し、熊本県がかつての地位を取り戻すことであった。士族の子として育てられてきた生徒たちも、勉強を政治家や役人になるための準備だと思っていた。しかし、ジェーンズの目標は生徒たちをより大きな公共の福祉に献身させることであり、「生徒を国家発展の事業に適応させ」、「工業、造船、商業、農業の未知の手つかずの資源」を活用させることだった。このようなジェーンズの想いを受けて政治家・役人志望から商工農業へ志望を変更した生徒は多く、近代農学の祖と呼ばれ、東京農業大学学長となった横井時敬など、熊本洋学校は日本の近代化を担う人材を輩出していくことになるのである。

熊本の農業・食文化に影響を与えたジェーンズ

このように、ジェーンズは熊本県との契約期間である4年間で素晴らしい成果を上げたと言ってよいであろう。しかし、ジェーンズの公的職務は教師であったが、彼の影響や業績は学校だけに留まらず、多方面に渡ったことは見逃せない。そこで、それらについてご紹介したいと思う。

熊本入りする時に見た田園風景の美しさに良い印象を抱いていたジェーンズであったが、実際に獲れる農作物は粗悪で、味もおいしくないことに大きく失望する。健康な身体こそがあらゆる発展の基礎になると考えていたジェーンズは、農業改良に乗り出すことを決意する。そこでまずは、ニューヨークから農作物の種子を取り寄せ、県から農地を借りて自ら野菜作りを始めた。その後、耕耘社(園芸協会)がジェーンズの農場を見学に来たのをキッカケに、彼らの農場でいろいろな外国種の野菜の栽培実験を始めた。

えんどう豆や玉ねぎ、キャベツ、カリフラワー、レタスが栽培され、県内の各地域で生産されるようにと分配された。その後、オクラ、とうもろこし、じゃがいも、トマト、メロン、ピーナッツなどが栽培され、熊本の農産物の仲間入りをすることになる。熊本の農業発展の必要性を考えていたジェーンズは、学校でも農業の重要性を教えた。講義の内容はその後「生産初歩」という小冊子にまとめられ出版された。本の中でジェーンズは、米・絹・茶の3品目を熊本県の特産にすべきだと説き、熊本県がその忠告を守って取り組んだ結果、米・絹・茶は熊本の経済を支える3本柱となったのである。

また、ジェーンズは果物にも関心をもっており、1873年秋にはみかんの栽培運動を始めた。パンもジェーンズが成功した分野の一つだった。西洋文明の象徴であるパンを熊本の小麦で作れないかと試したところ、想像以上に美味しく出来ることを発見。それを知った贔屓にしているコックがパン屋を開業し、パンは熊本の人たちに受けられていった。

その他にも、アメリカから農業用具を取り寄せ生産性の向上に貢献したり、栄養価の高いミルクを普及させるために乳牛の飼育にも取り組んだ。牛肉の普及にもジェーンズは貢献している。西欧の食文化の普及が文明開化には必要だと考えていたジェーンズにとって牛肉もその一つであったが、当時の熊本では牛肉を食べる習慣がなく、食べるために牛を殺すことは罰あたりとさえ思われていた。そのような中で、洋学校の生徒たちが壊血病にかかる事態が発生する。これを食肉の絶好の機会と捉えたジェーンズは周囲の反対を押し切って治療薬と称して肉料理を食べさせる。壊血病の生徒たちはみるみる元気になっていき、この話が広がると牛肉を食べる人も増えて行った。ジェーンズが熊本を去るころにはミルクや牛肉が町の中で普通に手に入るようになっており、それどころか長崎に船出しされるまでに成長していたのである。

熊本バンドの生みの親

ここまで見たように、ジェーンズは熊本に大きな影響を与えた人物であることがお分かり頂けたかと思うが、やはりキリスト教のことを抜きにジェーンズを語ることはできないので、最後にキリスト教のことについても触れておきたいと思う。

ジェーンズが日本にやって来た1870年代初頭は、キリスト教はまだ厳禁だった。熊本の人々の反キリスト教感情も根深く、ジェーンズは熊本滞在の最初の3年間は学校の中でも外でもキリスト教を論じる努力は一切しなかった。しかし、ジェーンズに感化された生徒たちの中には少なからずともキリスト教に興味を持つものが出てきたのである。そのような気配を感じたジェーンズは、4年目から科学や自然界の摂理を教える中で、キリスト教の神の概念を間接的に伝えていった。

やがて、生徒たちの中にキリスト教をもっと学ぼうとするグループが出てくる。彼らの要求に応えて、ジェーンズは毎週土曜の夜に自宅で聖書の勉強会を行うようになった。勉強会の内容は聖書を順番に音読するだけで、ジェーンズから教えることはなかった。ジェーンズにとって聖書の勉強もまた、他の学問と同様、自分で学んでいくものだったのである。

1874年の終わりごろには参加者が60人にまで増え、勉強会は土曜と日曜の夜の2部に分けられた。初めは興味本位で参加していた生徒も多かったが、次第にキリスト教に傾倒していった。もともと生徒たちは武士として小さい頃から儒教の価値観に基づいて教育を受けてきた。つまり、彼らにとって主君に対する忠義こそが最大の価値であったわけだが、明治維新と藩制の解体によって忠義の対象を失った彼らは、自分が何を果たすべきなのか思い悩んでいた。しかし、ジェーンズの教えを通して、神こそが主君であり、社会奉仕をもって忠義を果たすという大義をキリスト教の中に見出したのである。

こうしてキリスト教を信奉する生徒たちが増えてくると、キリスト教の問題が学校存続の危機となってきた。生徒たちは聖書の勉強に熱中し、自習室や食堂で祈りをささげた。キリスト教の伝道を始める生徒も出てきた。学校当局はこの事態に気付くとジェーンズを激しく非難し、生徒にも学校を宗教的目的に使用してはならないと警告した。しかし、生徒たちの行動が変わることはなく、1876年1月末にはとうとうキリスト教への集団入信を宣言する事態が発生してしまう。

1月30日の日曜日、生徒40名ほどが、いつものようにジェーンズ邸で礼拝を済ませた後、意を決して花岡山の鐘懸松のほとりに集まった。そして、讃美歌「 主、我を愛す」を合唱すると、ヨハネによる福音書10章の「イエスは良い羊飼い」の一節を読んだ。全員で祈りを捧げた後、 生徒の一人が「奉教趣意書」を取り出し読み上げた。

「余輩嘗テ西教ヲ学ブニ頗ル悟ル所アリ」で始まる誓約文は、キリスト教の教えを日本に布教し、古い封建的な教えに縛られている人民を啓発し、生命を惜しむことなく日本の開明に努めることを神に対し誓約したものだった。誓約文が読み上げられた後、主イエスに祈りを捧げ、35名の生徒たちが奉教趣意書に署名してキリスト教への集団入信を誓ったのである。この時、花岡山にいたメンバーの中には後に日本キリスト教の三元老と呼ばれる宮川経輝や海老名弾正、日本言論界に不動の地位を築いた徳富蘇峰などがいた。

花岡山での集団入信が学校当局や家族に知れ渡ると、ただちに棄教させようという圧力が生徒たちに掛けられた。あるものは座敷牢に閉じ込められ、あるものは棄教しなければ父親が腹を切ると詰め寄られた。さらに、奨学金が打ち切られるなど経済的圧力まで掛けられた。町ではキリスト教徒の生徒たちを殺すと誓う党派が団結したという噂も流れた。しかし、圧力に屈服せず耐え忍んだ生徒たちは逆に結束を固めていった。そして、政府から宗教は個人の自由であるという見解が出ると、この事態は次第に収束していき、生徒たちの信念の確かさ、信仰の強さを証明する実質的勝利という結果に終わったのである。

この事件を受けて熊本県はジェーンズとの契約を再延長しないことを決定し、熊本洋学校は閉鎖されることになった。生徒たちの多くは新設間もない同志社英学校に転校し、札幌バンド、横浜バンドと並ぶ近代日本キリスト教の主流の一つ「熊本バンド」として大きな役割を果たすこととなる。ジェーンズも1876年10月に5年間の熊本での生活を終え、熊本を後にしたのであった。

画像出典:wikipedia

なお、余談ではあるがプロテスタント系学校の九州学院の初代院長・遠山参良は熊本洋学校出身である。また、開新高等学校と合併して廃校となった熊本フェイス学院の前身・熊本英学校の初代校長は海老名弾正である。このように、ジェーンズの教えたキリスト教精神は熊本の若者たちに綿々と引き継がれていったのである。

最後に

如何だっただろうか?これで少しはジェーンズという人物、そして彼が残した功績についてお分かり頂けたのではないだろうか。命の保証のない熊本という土地に乗り込み、私利私欲一切なく社会発展のために尽力したジェーンズは、まさに「サムライ」と呼ぶにふさわしい人物である。そして、そんなサムライが過ごした邸宅が熊本地震で全壊してしまったことは誠に残念でならない。

しかし、ここで一つ明るいニュースがある。熊本県立大学の学生がジェーンズ邸の再建支援に立ち上がったのだ!その名も「プロジェクトJ」。建築を専攻する学生とマーケティングを専攻する学生の共同プロジェクトで、ジェーンズ邸をペーパークラフトで再現し、ペーパークラフトを通してジェーンズ邸を多くの人に知ってもらおうというものである。また、ペーパークラフトのチャリティ頒布を行い、ジェーンズ邸再建のための寄付を募る予定である。

そんなプロジェクトJが現在クラウドファンディングでペーパークラフト製作のための資金を集めている。目標金額は60万円で4月30日まで支援を募集している。ぜひこの若者たちにエールを送って頂きたい。そして、熊本の重要な文化財であるジェーンズ邸の1日も早い再建を、皆さんのチカラで後押しして頂ければ幸いだ。

【クラウドファンディングで応援】
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