【熊本の歴史】いつ誰が統治してたの?熊本のお殿様の歴史を図にしてみた。

歴史は複雑なものだ。その複雑さ故に嫌いな人も多いのではないだろうか?しかし、歴史の魅力をその複雑な関係を紐解いていくことにある。とかっこいいことを言ってしまったが、やっぱりシンプルな方がわかりやすい。ということで、今回は、熊本の歴史、中でも熊本のお殿様の歴史をザックリ図にしてみた。

 

戦国前期:菊池氏、阿蘇氏、相良氏の分割統治

 

戦国大名となった各氏(菊池氏、阿蘇氏、相良氏)は、北部、中部、南部と各々に拠点を構えて、ほぼ平穏な戦国前期を送っていた。 やがて菊池氏は阿蘇家に飲み込まれる形となったが、身内の後継争い・内紛を繰り返した。 南で鹿児島・島津などの盾となっていた相良氏だったが、鉄砲伝来後、近代兵器を持った島津軍になすすべなく降伏。 阿蘇氏も島津軍に次々と城を落とされ滅亡した。
九州平定の寸前で島津軍は、大分・大友の要請により挙兵した秀吉の大軍に破れ、肥後を放棄した。(Wikipediaより)

戦国期:佐々成政の統治~戦国期:加藤・小西の二分統治

 

豊臣秀吉より富山城主であった佐々成政に肥後の統治が命じられた。しかし佐々成政が改革を急ぐあまり反感を買い、肥後国人一揆が起きた。秀吉は、加藤・小西に鎮圧を命じ、一揆は収束。佐々成政は責任を取らされて自害させられた。

肥後を平定した両氏は、肥後の所領を与えられ、加藤はおもに北部、小西は中南部を所領にした。 慶長5年(1600年)、肥後南部24万石を領していた宇土城主小西行長は、西軍につき、関ヶ原の戦いで西軍の敗将となり斬首、改易となった。(Wikipediaより)

 

戦国期:加藤氏の統治~江戸期:細川氏の統治

すでに肥後北部25万石を領有していた隈本城主加藤清正が、関ヶ原の戦いの戦功により行長の旧領を得て52万石を領したことにより当藩が成立した。
清正は日本三名城に数えられる熊本城を築いた。また、城下町や道路網を整備し、新田開発、灌漑用水の整備により治水を図り、統治を安定させた。土木建設に力を注ぎ領内基盤整備の礎を築いた「清正公さん」(せいしょこさん)の人気は、今日の熊本においても非常に高い。
加藤家2代忠広は、寛永9年(1632年)駿河大納言事件に連座したとされる罪で改易され出羽国庄内に配流、加藤家は断絶した。

代わって同年豊前国小倉藩より、細川忠利が54万石で入部し、以後廃藩置県まで細川家が藩主として存続した。国人の一揆が多く難治の国と言われていた熊本入部に際しては、人気のあった加藤清正の統治を尊重し、清正公位牌を行列の先頭に掲げて入国し、加藤家家臣や肥後国人を多く召抱えたという。(Wikipediaより)

 

本当にザックリ大雑把ではあるが、熊本の歴代の統治者、つまりお殿様が誰だったのかを、歴史の時系列で図にしてみた。もっと細かく見ていけば、きっと意外な熊本の歴史に遭遇できるはずだが、まずは大雑把になんとなく熊本の歴史がわかってきた気がする。また少しずつ熊本の歴史を勉強していこう。そして、熊本県各地の歴史を掘り起こしていこう。